ままならないものがくれる自由

自由は良いものという前提が根強いけど、だったらなんで家庭なんていう厄介なものを望むんだろう。自由を奪い自分を縛るものをたまらなく欲してしまうのか。

「行かないといけない」
「早く帰らないといけない」

「しないといけない」と鬱陶しそうな物言いをしながら「しないといけない」ものがたくさんある自分がイケてるように思えたり、「しないといけない」と言われた時には少し羨望の眼差して見てしまったりする。
なんだかんだ言っても何かに縛られることを望んでしまうものなのでは。自分を縛るものは即ち自分の居場所、自分がどれだけ必要とされているかでもある。

本当の本当の本当に全ての縛りから自由になってしまったら、楽しくもなんともなく、ただ心細いだけではないだとうか。

いわゆる自由とは、負荷や制約がない状態のこと。でも本来はそうではなく、負荷の中で負荷に対応する術を覚えて自分の良心が求めるところを行えることを自由というんじゃないだろうか。

本当は人間は負荷を求めてる。だからスポーツやゲーム、遊びが面白いわけで。

チャタレイ夫人や黙示録論を書いたロレンスは欲するところに「大地との結合」をあげているのだという。またフィッツジェラルドという人は「果てることなくどこまでも続いているのは街ではなく、青や緑の大地」と悟ったという。

大地は自由と対極ではないだろうか。大地ほどままならないものはない。大地に従わなければ作物もできない、家も建てられない。

鈴木大拙は大地性を持った時に日本的霊性が覚醒したという。

ままならないものの声を聴き、ままならないものを少しずつ知っていき、何をどうすべきか見えてくることで自分の襞が増えていく。余裕が生まれる。自由に振る舞えるようになる。これをリベラルアーツといい、この自由こそ手にいれるべきものではないかと思う。