救えるのか?

福田恆存という人は一匹と九十九匹ということを言ったらしい。政治が九十九匹を救うもの、政治では救えない一匹を救うのが文学と言ったとか。

救えるのかな。救うって何?新しい視座を与えるだけの話じゃない?

圧倒的な知を前に

圧倒的な知を前にして、その圧倒的な知に一喝され、それでも拭えない違和感がある。
その知の集団の中で私は笑い者になるかもしれない。愚者の烙印を押されるかもしれない。でもこの自分の不快感、違和感は、心の底から本当に得心がゆくまで捨てたくない。

知の言葉を受け入れた方が何かと楽だ。得もするだろう。なにより、私自身のこの不快感、違和感がやはり愚かな情動に過ぎない可能性は大きい。
けれどやはり、それでも本当に得心がゆくまで捨てたくない。

やっぱり私が間違っていたとわかるか、やっぱり私は間違っていなかったとわかるまで、保留にしておいてもいいんじゃないか。その上で、波風立てずよしなにやっていくのも良いのでは。

ままならないものがくれる自由

自由は良いものという前提が根強いけど、だったらなんで家庭なんていう厄介なものを望むんだろう。自由を奪い自分を縛るものをたまらなく欲してしまうのか。

「行かないといけない」
「早く帰らないといけない」

「しないといけない」と鬱陶しそうな物言いをしながら「しないといけない」ものがたくさんある自分がイケてるように思えたり、「しないといけない」と言われた時には少し羨望の眼差して見てしまったりする。
なんだかんだ言っても何かに縛られることを望んでしまうものなのでは。自分を縛るものは即ち自分の居場所、自分がどれだけ必要とされているかでもある。

本当の本当の本当に全ての縛りから自由になってしまったら、楽しくもなんともなく、ただ心細いだけではないだとうか。

いわゆる自由とは、負荷や制約がない状態のこと。でも本来はそうではなく、負荷の中で負荷に対応する術を覚えて自分の良心が求めるところを行えることを自由というんじゃないだろうか。

本当は人間は負荷を求めてる。だからスポーツやゲーム、遊びが面白いわけで。

チャタレイ夫人や黙示録論を書いたロレンスは欲するところに「大地との結合」をあげているのだという。またフィッツジェラルドという人は「果てることなくどこまでも続いているのは街ではなく、青や緑の大地」と悟ったという。

大地は自由と対極ではないだろうか。大地ほどままならないものはない。大地に従わなければ作物もできない、家も建てられない。

鈴木大拙は大地性を持った時に日本的霊性が覚醒したという。

ままならないものの声を聴き、ままならないものを少しずつ知っていき、何をどうすべきか見えてくることで自分の襞が増えていく。余裕が生まれる。自由に振る舞えるようになる。これをリベラルアーツといい、この自由こそ手にいれるべきものではないかと思う。

同等に扱われるためには

自分の投稿が雑誌に掲載されたというのに心を占めているのは嬉しさではなく悔しさだ。本題に入る前の導入部分だけど、私自身にとっては重要な、いわば私自身に繋がる箇所が丸ごと削除されていたのだ。

一介の単なる読者の投稿だから、編集部にとってはどうでも良いものなのかもしれない。私が自分で考えているほどの内容でもないのだろう。拙いのもわかる。
けれど、そこを消されてしまうと、その投稿の主題を単に礼賛しているだけのものになってしまう。あくまでも私の軸足はその逆側にあるのだ。

他の出演者と同等に扱われるためには、同性愛者でもなければ、もちろん女装癖でもない彼ら、彼女ら以上の力を手に入れなければならないって。

愚の骨頂 続・うさぎとマツコの往復書簡

マツコのこの言葉を胸に刻んで腐らずにやるしかない。

他の投稿者・執筆者と同等に扱われるためには、無学の中年女でもなければ、多読で学歴や実績を持っている彼ら、彼女ら以上の力を手に入れなければならないって。

マツコも味わった悔しさと思えば悪くもないじゃないか。

恋愛は魂を濁らせるけれど

恋愛は魂を濁らせる
恋愛は魂を濁らせる
恋愛は魂を濁らせる

けだし名言。
恋愛している時の自分は気持ち悪いもの。そういうものはもういいやと、私の人生からは無くしてしまおうと決めてからの10年はある程度澄んでいた。

でもある程度なんだな。
恋愛的なものと入れ替わるように老いへの不安が占めるようになった。若者の才能やセンスに恐れを抱き、お払い箱に入れられる自分を想像し、金への執着も消えない。

どっちにしても濁っている。

したい会話のために

愚の骨頂/続・うさぎとマツコの往復書簡を読んでいる。

二人の間ではとても丁寧に言葉が交わされている。お互いの言葉の定義のズレを確かめいあいながらすれ違いは丁寧に解かれていく。

こんな会話したことない気がする。そういった作業はとても面倒だし、それ以上に、自分がバカと思われるんじゃないかとか、相手に落胆されるんじゃないかとか、面倒で迷惑な人間と思われるんじゃないか、そのために相手との関係が成り立たないのではという怖さで逃げていたような気がする。

ここ最近、人と話していても不完全燃焼でモヤモヤを抱えたまま別れることが多く、話題が合わないせいかと思っていたけど、話題の問題ではなくて、丁寧な会話を、お互い落胆するかもしれないし、面倒で迷惑かもしれないけれどそういう不安も預けてしまえるような、そういう会話を求めていたんじゃないだろうか。

話題ではなくて、その時生じたズレを丁寧に確かめ合う、そういう会話。「あの話がしたかった。この話をしたかった」と不満を抱えながら別れていたけれど、話題はなんでもいいのかもしれない。

そういう会話をするためには、まずは自分が言葉を丁寧に扱わないといけないな。曖昧に乱暴に使っていては私自身がしたい会話の席にも着けない。言葉を大切に扱うよう心がけるところからだな。

加えて会話がどう転んでもいいじゃないかと思い切ること。

格好の悪い人生

中村うさぎとマツコ・デラックスの往復書簡を読んでいる。

孤独で不幸な自分をそのまま受け入れていくような心地。
孤独で不幸、それだけで苦しいのに、幸せでないことは恥というような、幸せでないといけないような、そんな強迫観念のようなものが苦しみを苦しみのまま感じることを禁じてさらに苦しみに追い打ちをかける──これがこの20年の私の人生だ。

孤独。不幸。ここから脱出したくて必死にもがいた。でもダメだった。そして悲しいことに、それでもまだ幸せなるものを諦めきれず手に入れたくて冷静な顔をしながら渇望している。

書簡の中の言葉には自ら感じた言葉も多くあった。けれど自分の中から湧き上がってきた言葉に従うことは怖かった。すでに人生が失敗しているにも関わらず、これ以上に堕ちていくような気がして外側から見た正しさに自分を合わせようと自分を殺しつつ、かと言ってそんなものに従いたくないという反発心も失うことができず、どっちつかずのまま生きてきたのがこの20年。なんて格好の悪い人生だろう。

彼女たちは自らの言葉を大切にしてきたのだと思う。元々の知性や才能がずば抜けていることは勿論、自らの言葉に背を向けずにいられたかどうかが私のような凡庸な人間との決定的な違いのように思える。

帝王の迷走

大きな地位にある人が転げ落ちる様を目にした。多くの人は彼を強者と見ていたけど、いざ事が起きてみればその弱さが露呈。

社会的なその地位が変わったわけではないけど、彼のカリスマ性は地に落ちた。真に強靭な人ではなかったんだな。

彼の迷走は私にとっては解放でもある。いかに自分が縛られ自由にものを感じることを禁じていたかがよくわかった。彼の弱さと共に私の奴隷っぷりも露呈したわけだ。
長年カリスマに焼かれ自分を失っていた。あぁ、恥ずかしい。

彼の元からは多くの人が離れた。そんな中、ある男性の言葉が印象に残っている。「今回の件はあの人が悪いにしても、そんなモンスターにしたのは自分達だろ?操縦できなかったんだろ?」と。

これは頷かざるを得ない。

彼自身はもちろん、周囲も含め、口ではなんと言ってても、人って弱いものなんだなとつくづく感じた。「お見事!」という立ち回りを見せてくれた人なんて一人もいないもの。

彼と本気で関わろうとした人は一人でもいたんだろうか。本気で関わろうとしても彼が拒むから折りを見つつ調整を図ってきていた中での事件だったんだろうけど。いや、長い時をかけて調整を図る努力を続けることが本気で関わるということともいえるか。

とにかく。世の中にはそんなに立派な人なんていない。みんな本当に弱い普通の人。そしてそれでいいと思う。

Hello world!

くだらない話を自信満々にする人っていますよね。あれがもうピキーッと血管が切れそうになるほど嫌で、そんな場面に出くわすと肉乃小路ニクヨさんばりの白目を剥きたくなってしまいます。
ひとりイライライライラしてしまうわけです。

けれど周りの人たちはさほどストレスを感じている様子でもなく、なんなら楽しそうに話している人もいる。いや、みんな普通に楽しそう。どうやら私が神経質なだけっぽい。

なんで私一人がイライライライラしてしまうのか。それはもしかして、私もくだらない話を思いっきりしたいのかもしれない。自分が出来ないことをやっている人に対して腹を立てているだけかもしれない。

そんな仮説をもとにブログを始めてみることにしました。一種のセラピーみたいなものです。