同等に扱われるためには

自分の投稿が雑誌に掲載されたというのに心を占めているのは嬉しさではなく悔しさだ。本題に入る前の導入部分だけど、私自身にとっては重要な、いわば私自身に繋がる箇所が丸ごと削除されていたのだ。

一介の単なる読者の投稿だから、編集部にとってはどうでも良いものなのかもしれない。私が自分で考えているほどの内容でもないのだろう。拙いのもわかる。
けれど、そこを消されてしまうと、その投稿の主題を単に礼賛しているだけのものになってしまう。あくまでも私の軸足はその逆側にあるのだ。

他の出演者と同等に扱われるためには、同性愛者でもなければ、もちろん女装癖でもない彼ら、彼女ら以上の力を手に入れなければならないって。

愚の骨頂 続・うさぎとマツコの往復書簡

マツコのこの言葉を胸に刻んで腐らずにやるしかない。

他の投稿者・執筆者と同等に扱われるためには、無学の中年女でもなければ、多読で学歴や実績を持っている彼ら、彼女ら以上の力を手に入れなければならないって。

マツコも味わった悔しさと思えば悪くもないじゃないか。

恋愛は魂を濁らせるけれど

恋愛は魂を濁らせる
恋愛は魂を濁らせる
恋愛は魂を濁らせる

けだし名言。
恋愛している時の自分は気持ち悪いもの。そういうものはもういいやと、私の人生からは無くしてしまおうと決めてからの10年はある程度澄んでいた。

でもある程度なんだな。
恋愛的なものと入れ替わるように老いへの不安が占めるようになった。若者の才能やセンスに恐れを抱き、お払い箱に入れられる自分を想像し、金への執着も消えない。

どっちにしても濁っている。

したい会話のために

愚の骨頂/続・うさぎとマツコの往復書簡を読んでいる。

二人の間ではとても丁寧に言葉が交わされている。お互いの言葉の定義のズレを確かめいあいながらすれ違いは丁寧に解かれていく。

こんな会話したことない気がする。そういった作業はとても面倒だし、それ以上に、自分がバカと思われるんじゃないかとか、相手に落胆されるんじゃないかとか、面倒で迷惑な人間と思われるんじゃないか、そのために相手との関係が成り立たないのではという怖さで逃げていたような気がする。

ここ最近、人と話していても不完全燃焼でモヤモヤを抱えたまま別れることが多く、話題が合わないせいかと思っていたけど、話題の問題ではなくて、丁寧な会話を、お互い落胆するかもしれないし、面倒で迷惑かもしれないけれどそういう不安も預けてしまえるような、そういう会話を求めていたんじゃないだろうか。

話題ではなくて、その時生じたズレを丁寧に確かめ合う、そういう会話。「あの話がしたかった。この話をしたかった」と不満を抱えながら別れていたけれど、話題はなんでもいいのかもしれない。

そういう会話をするためには、まずは自分が言葉を丁寧に扱わないといけないな。曖昧に乱暴に使っていては私自身がしたい会話の席にも着けない。言葉を大切に扱うよう心がけるところからだな。

加えて会話がどう転んでもいいじゃないかと思い切ること。

格好の悪い人生

中村うさぎとマツコ・デラックスの往復書簡を読んでいる。

孤独で不幸な自分をそのまま受け入れていくような心地。
孤独で不幸、それだけで苦しいのに、幸せでないことは恥というような、幸せでないといけないような、そんな強迫観念のようなものが苦しみを苦しみのまま感じることを禁じてさらに苦しみに追い打ちをかける──これがこの20年の私の人生だ。

孤独。不幸。ここから脱出したくて必死にもがいた。でもダメだった。そして悲しいことに、それでもまだ幸せなるものを諦めきれず手に入れたくて冷静な顔をしながら渇望している。

書簡の中の言葉には自ら感じた言葉も多くあった。けれど自分の中から湧き上がってきた言葉に従うことは怖かった。すでに人生が失敗しているにも関わらず、これ以上に堕ちていくような気がして外側から見た正しさに自分を合わせようと自分を殺しつつ、かと言ってそんなものに従いたくないという反発心も失うことができず、どっちつかずのまま生きてきたのがこの20年。なんて格好の悪い人生だろう。

彼女たちは自らの言葉を大切にしてきたのだと思う。元々の知性や才能がずば抜けていることは勿論、自らの言葉に背を向けずにいられたかどうかが私のような凡庸な人間との決定的な違いのように思える。